〈ケア〉を考える会(第105回)


■日時:2015年12月20日(日)13:30~17:30

 

■読書会:『老いの空白』(岩波現代文庫)

  「4 〈弱さ〉に従う自由」を読んで考えます。

 

■いつもの山科会場で



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『老いの空白』ノート 

       「 〈弱さ」に従う自由 」

 

 

幼き者が幼いものとして幼いままに輝ける社会、老人が老人としてのそのあり方に十分な意味を見出せる社会、そういう社会こそ「成熟した社会」といえそうだ。(‥‥)老人が老人として大人の世界から退場してゆくのではなく、〈老い〉の時期としての時間に重要な意味を見いだしながら生きてゆける社会、それが社会の成熟というものではないか

 93頁)

 

 

何か物品や価値を生産するからではなく、「ただいる」ということだけでひとの存在には意味があるということがあたりまえのこととなったときに、はじめてひとは「成熟した社会」のイメージ、あるいは〈老い〉の文化というものに、リアルにふれることになるのだろう。(95頁)

 

 

老いとともにひとは人生を「できる」ことからではなく、「できない」こと、もしくは「できなかった」ことから見据えるようになるということだ。そして「できなくなる」こと、「できなかった」ことの方ほうからじぶんを見つめるようになるということは、何かをする(あるいは、してきた)かというよりも、自分が何であるか(あるいは、あったか)という問い、さらにはじぶんがここにいるということの意味への問いに、より差し迫ったかたちでさらされるようになると言うことだ。(101頁)

 


「世話をする-世話を受ける」という一方通行の関係を超えるような地平のなかにじぶんを放り込もう(102頁)

 

 

「できる」ことをめざさない生のあり方をこそ、考えねばならないであろう。(103頁)

 

 

何かを意のままにできるということが〈いのち〉の成熟なのではない。そうではなくて、意のままにならないということの受容、そういう「不自由」の経験をおのれの内に深く堪えつつ、何かを意のままにするという脅迫から下りることを自然に受け入れるようになるのが、〈いのち〉の成熟であろう。その意味では〈老い〉とは、他なるものの受容の折り重なりとして現象するといえる。〈老い〉をむしろ衰退や対抗とみるところに〈老い〉のかたちは現れてこようがない。

 

人生を「できる」ということからではなく「できなくなる」というほうから見つめてみると、もっと違う〈いのち〉の光景が眼に入ってくる。「作る」「できる」ではなく、ただ「いる」というそれだけで価値が認められるような、ひとについての見方、それが「高齢者問題」では賭けられている。〈老い〉は「問題」ではなく、人類史の「課題」としてここに浮上してきている。(105106頁)

 

 

ひととしての弱さにみずから向き合うことから始める、それが、回り道のように見えるかもしれないが、いちばん必要なことなのではないか。(107頁)

 

 

相互に依存しないでは何ひとつできない、そういう人間の〈弱さ〉が、この社会でどれほど見えにくくなっているか

 

(‥‥)
相互依存(interdependence)、それはあまりにあたりまえすぎる事実だと言ってよい。(110頁)

 

 

かつて家族や地域が持っていた〈協同〉の機能が、その細部まで中央管理的なシステムに吸い上げられることで急速にやせ細ってきた

 

(‥‥)

 

〈協同〉の力を削いでゆくこのプロセスこそ、福祉政策というより大きな〈協同〉の衣をまとうことでその実「弱い者」をさらに弱体化してゆくプロセスであった。扶養する者-扶養される者、介護する者-介護される者、保護する者-保護される者というかたちで、家庭や福祉施設や学校を一方的な管理のシステムとして再編成し、「弱い者」を管理されるものという受動的な存在だと押し込めることになった。女性も老人も子どもも、その対抗性、破壊性を封印され、「可愛い」存在であることでしか安寧をよく約束されないという体制が社会に浸透していった。そうなりたくなければ「がんばれ」、というわけだ。(112-113頁)

 

 

「頑張れ」というのは、「強い」主体になれということだ。「強い」主体というのは、みずからの意思決定にもとづいて自己管理ができ、自己責任を担いうる主体のことだ。そういう「自立した自由な」主体が、社会の細胞として要請される。それ以外の者は、「社会にぶら下がる」ことでしか生きられない保護と管理の対象とみなされる。そしてそういう「自立した自由な」主体を想定して、近代の法制度は作られてきた。そういう合理的に行動する市民的個人を前提として近代経済学は作られてきた。
 
しかし、「自由」というのは、「自立」を、つまりは自己決定と自己管理と自己責任を引き受けうるということを必ず前提とするものだろうか。各人がじぶんの主人であること、そういう意味で、決定と責任の主体でありうるような自己完結した存在の想定なしに不可能なことだろうか。(113頁)

 

 

 

支える-支えられるという関係はつねに反転する。(‥‥)依存はつねに相互的である。(‥‥)ケアがもっとも一方通行的に見える「二十四時間要介護」の場面でさえ、ケアはほんとうは双方向的である。子どもを育てるなかで赤ん坊の笑顔に救われないひとはいないだろう。(114頁)

「脆い」主体、じぶんについて不明な者どうしが絡みあい、支えあってきたのが、わたしたちの共同生活である。「自己決定」をするにはじぶんに見えないものが多すぎるのであり、自己の存在についてすら「責任」をとりきれないのがわたしたちなのだ。〈老い〉や〈幼さ〉だけが、自分で背負いきれないものなのではない。そしてじぶんでじぶんのことが担いきれない、そうゆう不完全な存在という意味では、だれもが傷や病や障害をふつうのこととして抱え込んでいると言ってよい。(115頁)

弱いものに従うこと、そこに「自由」がある(117頁)