意思決定支援と反時代的考察

              森木田 一毅

 

 

成年後見に関連して、意思決定支援ということが近年強調されている。それ自体はもちろん望ましいことであるが、一部では代行決定は不適切であるかのような極論も見られる。代行決定か、意思決定支援か、ではなく、意思決定支援の延長線上に代行決定が位置付けられるものである。

国連障害者権利委員会のように、意思決定支援を極端に重視する考え方の根底には、知的障がい・精神障がい者を念頭に置いているものと考えられる。

ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』は、非常に優れた本だが、ターミナルに言及しない理由はその辺りにあるのではないか。同書は、ケアにおける相互性とケアする主体の成長が重視される。しかし、それが可能なのは、ケアを受ける側も一定程度、成長する主体であることが前提となっている。もしかすると欧米においては、主体的な人間像が標準となっているために、認知症高齢者、就中アルツハイマー型認知症やターミナルの問題は等閑視されているのではないか。

日本においても、介護という点については門外漢の私が見たところ、認知症高齢者、知的障がい者、精神障がい者の各介護職はあまり交流が無いようにみえる。確かに介護の現場では、要介護者の個性に対応する専門的なスキルが求められるので、各障がいに応じた現場の特性が出来上がるのは当然のことかもしれない。成年後見を担当する者は、一人の後見人が認知症高齢者にも、知的障がい者にも、精神障がい者にも対応しなければならないが、そちらの方が一種乱暴なのかもしれない。

成年後見人はその職務を善良な管理者による注意(いわゆる善管注意義務)を以って行わなければならないとされているが、その内容は一義的ではない。前述の意思決定支援と代行決定にも関係するが、自己決定の尊重とパターナリズムの関係をどう考えるかというのが、善管注意義務の中身として論じられてきた。この点について、各障がいに応じた類型論を画策しているのであるが、今はその余裕が無いので、後日の課題としたい。

繰り返すが、欧米の人間主体の考え方は、障害者ケアに親和的である。認知症高齢者、就中アルツハイマー型認知症の場合は、どんどん人格が壊れていくので、主体的意志を中心に置く考え方では、周縁に追いやられるのではないか。邪推かもしれないが、欧米に寝たきりの人が少ないというのは、寝たきりになると見棄てられることの裏返しかもしれない。

ケアを考える会においては、どちらかと言えば認知症高齢者に関係する職種の方が多いことと、専門的なノウハウよりも哲学的なアプローチでケアを取り上げてこられたため、障がいの類型にとらわれない議論ができているように思える。私が最も印象に残っているのは、この会に参加した当初にご紹介いただいた小澤勲『痴呆を生きるということ』(この会で読んだと思い込んでいましたが、記録にない!なんと記憶のいい加減なことorz。でもこの会でその話題が出たのは、確か…だと思う…。)の最終章「生命の海」。著者がその生命の終わりに近づいたことを生命の網の一つのつながりと自覚して受容していることを語ったくだりである。主体性ある個人にとどまらない死生観の中でケアというものを考え続ける姿勢が、欧米的な物の考え方が主流になってきている世界にあって、貴重なものと思う。意思決定支援が重要な事は認めるが、更にその先のケアを見つめ続ける場として、この会のますますの発展を願うものである。