「〈ケア〉を考える会」ノート

 


2003/11/20 呼びかけ

「二一世紀は『ケア』の時代である、とよくいわれるようになってきた。そうなると、個々のケアの実践を超えた、あるいはそれを根底で支えてくれるような、『ケアの哲学』とでもいうようなものが必要になっているように感じられる。」(広井良典『ケア学』)

 

「〈老い〉のかたち、〈老い〉の文化が、〈老い〉そのものの内にも外にも見えない……。〈老い〉は空白のままである。

〈老い〉は、ものすごくラディカルな、つまり社会にとって根底的な問いとして、いま立ち現れている。」(鷲田清一『老いの空白』)

 

「わたしは、わたし以外のひとから確かなことを聴きたいとおもうようになった。 わたしをほどいてくれるその声は、けっして『強い』場所から発せられるものではなかった。 『弱い』場所から届くひりひりした言葉が、なぜかわたしをぎりぎりのところで支えてくれた。」(鷲田清一『〈弱さ〉のちから』)

 

学びたい。そんな気が静かにおこってきている。

日々の生活に追われて、ただ過ぎていくだけでいいのか。もう少し輝いてみたい。内から自分を変えてみたい。

 

鷲田さんの学問は「臨床哲学」といわれる。

「臨床」- つまりこの哲学は「現場」から発せられるということか。

わたしたち「現場」にいるものが、その「哲学」にふれる。

生の姿で、普段着で、ふつうの言葉で参加する。

そんな試みとしてこの会は生まれる。

 

 

2003/12/21 準備会

会の進め方等について話し合う。

 

会は次のように進めます。

①〈ケア〉(かなり広い意味にとらえている)、及び〈ケア〉にかかわることについて学びます。さらに、そこから展開するすべてのことが学習テーマとなります。

②学習会・読書会……例会<月1回程度>は、各回、テーマを定め、それに沿って進めますが、脱線・道草も厭いません。

③懇親会……学習会・読書会後、希望者による軽い食事会を行います。(持ち込み歓迎)

④当面、鷲田清一氏の文献を中心に学ぶ。

 

 

2004/2/1 第1

鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社)より「キャンピー感覚」、「迷惑かけて、ありがとう。」ほか ⇒ ケアというものを考える核心的なヒントがこの本の中に……。

 

1回例会 学習内容より《ピックアップ》

 ……ほんのさわりだけ……

『〈弱さ〉のちから』より抜粋

■ケアについて考えれば考えるほど、不思議に思うことがある。なにもしてくれなくていい、黙っていてもただ待ってくれているだけでもいい、とにかくただだれかが傍らに、あるいは辺りにいるだけで、こままと懸命に、適切に、「世話」をしてもらうよりも深いケアを享けたと感じるときがあるのはどうしてなのか。  

 

― 結果としてある深いケアが成り立っているような光景 ―

 

■弱い者たちが弱いままにそれでも身を支えてゆくためには、繕いが要る、支えが要る。その繕いに、その支えに、強いひとではなく、おのれの弱さに震えてきたもうひとりのひとが身を張って取り組む場面、それがわたしが間近で接した十二の《ホスピタルな光景》だった。

 

 それらの《ホスピタルな光景》にはしかし、いつも、どんな場面でも、ある反転が起こっていた。存在の繕いを、あるいは支えを必要としているひとに傍らからかかわるその行為のなかで、ケアにあたるひとがケアを必要としているひとに逆にときにより深くケアされ返すという反転が。より強いとされる者がより弱いとされる者に、かぎりなく弱いと思われざるをえない者に、深くケアされるということが、ケアの場面でつねに起こるのである。

 

■人に迷惑をかけること     

『えんとこ』 ……遠藤滋さんとこ、縁のある所

 

二十四時間要介助の遠藤さんは他のだれかに身をまかせなければ生きていけない。そういうふうに無防備なまでにありのままの自己を開くことで、逆に介助する側が個人的に抱え込んでいるこだわりや鎧をほどいていく光景がここに開けている。

 

 介助とは「お互いにそのいのちを生かしあう、そういう関係を創りあげていくための窓口」だと遠藤さんは書く。その窓口を「介助者募集」というかたちで開く。

 

 「君が今やりたいことを、真っすぐに人に伝えながら、できないことはみんなに手伝ってもらって、堂々と生きていきなさい。先回りして、人がどう思うだろうとか、これはいけないことではないかとか、勝手に一人で考えてやめてしまう必要なんかないんだよ。自分から逃げていては何にも始まらない。だって、君は一人で勝手に何かをやっていくことなんて出来ないだろう?」(遠藤)

 

 「人に迷惑をかけること、それは大いに必要なことである」(遠藤)

 

 

2004/3/14 第2

「ケア」や「援助」の現場に居合わせるすべてのひとの課題とは…… 

・鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社)より「順調です。― べてるの家」、「めいわくかけて、ありがとう。」  

・鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より「べてるの家の試み」

 

学習内容より《ピックアップ》

 ……ほんのさわりだけ……

■「べてるの家」 …… 北海道は襟裳岬のそば  浦河という町  その町外れの一角に、キリスト教会付属施設として「べてるの家」がある。分裂病や躁鬱病などの「精神障害」に苦しむひと、もしくはその体験者、アルコール依存症のひとたちがともに暮らすグループホームであり、共同作業所である。

 

「あの人たちは嘘を言ったりとか無理をしたりとか、人と競ったりとか、自分以外のものになろうとしたときに、病気というス
イッチがちゃんとはいる人たちだよね。」(向谷地)

 

 支援しなければならないひととして見ることが、「病む」ひとたちの行きづらさを余計に生みだす。ケアを受けるひととして、「病む」ひとを受動的な存在に押し込めてしまうからだ。「してあげる」ひとであることの可能性を奪い、「してもらう」ひととしてのあり方に閉じ込めてしまうからだ。

 ひとがそれぞれに抱え込んでいる生きづらさをいっしょに担うこと、いっしょに考えること。

無理をしたり、容量以上にがんばったとき、その無理、そのがんばりを緩和するために「再発」があるということ。

 

「普通」のひとでも「精神障害」のひとでもない、〈ホモ・パティエンス〉(苦しむひと)として人間を見ることということが、社会生活の共通の出発点

 

「弱いところのそのまた弱いところの、その中の弱いところがすばらしい」 

 (『老いの空白』より)

 

2004/4/18 第3

①〈老い〉の、何が問題なのか

②「相互ケア」、「その他の〔親密な〕関係」について

⇒①鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より

1.〈老い〉はほんとうに「問題」なのか?」  

②鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社より

「めいわくかけて、ありがとう。」

 

学習内容より《ピックアップ》

 ……ほんのさわりだけ……

■〈老い〉は「問題」か

だれもがそれぞれにそれぞれの〈老い〉を迎える。

 〈老い〉は、ふつうのひともしくはふつうの家族に普通に訪れることである。

 

 〈老〉とは、〈幼〉とならび、じぶんの力だけではみずからを世話できない状態であるとも言える。〈老〉と〈幼〉は援助の必要なものである。  人間は介護されつつ誕生し、生育し、しばらくの間自立し――これもほんとうは分業というかたちで支えあいのなかにある――、そしてふたたび介護されつつ死んでゆく。

 

 〈老い〉はいま「問題」として受け止められる。しかし、 なぜ  「問題」としてしか浮き立ってこないのか。〈老い〉は〈幼〉とともに、人生の一季節としてだれをも訪れるものであるのに。

(『老いの空白』より)

 

■ケアは双方向的……  支えあい……

支えあいというのは、けっして理想なのではなくて、ひとであるかぎり必然の事実なのである。

 

 ケアがもっとも一方通行的に見える「二十四時間要介護」の場面でさえ、ケアはほんとうは双方向的である。

 

 〈老〉と〈幼〉に共通するのは、いずれも単独で生きることができないということである。いいかえると、他のひとの世話を受けるというかたちでしかその存在を維持できないということである。が、その世話が、支えあいというよりも、一方から他方への介護であったり保護というかたちをとるしかないのは、哀しいことである。ひとはただ生きてあるだけでなく、生きるということ、じぶんがここにあるということ、そのことの意味をも確認しながらしか生きられないものであるのに、介護や保護やときに収容や管理の対象としてしかじぶんの存在を思い描くことができないときには、じぶんがここに生きてあるということについて意味を見いだすのがひじょうにむずかしくなるからである。

 

 〈老い〉はいま、「〈養う者・養われる者〉という二文法的な社会的カテゴリー」の中に収容されており、老いる者が受動的な存在であること、老いが他律的なものであること(「従順で愛らしい老人」)が強いられている。要は、高齢者はこの社会では受け身であるしかない。

 

 〈老い〉は保護や介護、ときに収容や管理の対象とみなされてゆく。年老いて、じぶんはもう消えたほうがいいのではないか、じぶんはお荷物、厄介者でしかないのではないかと問わないで生きえているひとは、少なくない。無力、依存、あるいは衰え、そういうセルフイメージのなかでしか〈老い〉という時間が迎えられないということが、  〈老い〉の空白でなくていったい何だろうか。

(『老いの空白』より)

 

2004/5/29 第4

・〈老い〉の、何が問題なのか

・〈老い〉とは人にとって、はたしてどういう事態なのか

・「感情労働」とは……人とのかかわりを職業とすることの意味

⇒・鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より

1.〈老い〉はほんとうに「問題」なのか?」

「2.できなくなるということ」)

・石川准著『見えないものと見えるもの』など

 

学習内容より《ピックアップ》

 ……ほんのさわりだけ……

■「感情労働」……職務内容に沿ってそれにふさわしい感情の状態や表情をつくりだす、そんな感情の自己管理が要求されるような仕事のこと。言いかえると、作業じたいはあきらかに労働なのだが、じぶんの労働がさし向けられている相手に対して、まるで家族か友人か恋人のような親密なつきあい方をしなければならないような仕事のことだ。

 

 ケアのさまざまな職務というのは、言うまでもなくそういう典型的な「感情労働」のひとつだろう。患者に対してよそよそしくしてはいけないし、深い共感なしにはできないことも多い。しかし同時に、職業人としての冷静な判断が強く求められるのも、この仕事の特徴だ。世話と労働という二つの局面を日常的にうまく重ね合わせ、ときに内面でその二つの顔に引き裂かれるおもいをすることが多いのが、ケアという仕事だ。

 

 こうした職務(ケアのさまざまな職務)には燃えつきや共感疲労など、きついリスクがともなう。

 そういうケアの日常に疲弊しはじめたときは、「使命」といった精神的な意味でじぶんを励ますよりも、「感情労働」としてそれに労働という面から光を当てることで心の負担を少なくできるということもある。

(『〈弱さ〉のちから- ホスピタルな光景』より)

 

 

2004/7/3 第5

・〈老い〉とは人にとって、はたしてどういう事態なのか

・「ただいる」ということだけで人の存在には意味があるのでは……

・相互に依存しないでは何ひとつできない、人間の〈弱さ〉について

⇒鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より

「2.できなくなるということ」

「5.〈老い〉の破壊性」

「6.〈弱さ〉に従う自由」 

 

 

2004/9/4 第6

「べてるの家」に学ぶ

 

⇒鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より

7 べてるの家の試み」

鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社)より

「順調です――べてるの家」

 

 

2004/10/30 第7

    ・「できる」ことと「できない」こと。

「する」ことと「ある」こと。

・「暴力としてのケア」「置き去りにするケア」

・ケアにおける「専門性」

 ⇒ 鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より

8 肯定と否定のはざまで」

 

    施設に入所するということ ― 地域と施設の生活の「落差」 ⇒ 外山義著『自宅でない在宅 ― 高齢者の生活空間論 』(医学書院)より P.137

 

学習内容より《ピックアップ》

 ……ほんのさわりだけ……

■「高齢期になっても、住みなれた地域で、暮らしなれた住まいのなかで人生を歩みきりたい」

――これは多くの人の共通の願いである。しかし現実には、 現代を生きるわれわれ日本人にとって、「施設で人生を閉じる」というシナリオは想定せざるをえない。

 

 筆者は、調査で追跡していた高齢者がさまざまな理由で地域での居住継続を断念させられ、施設へと移させる事例を数多く見てきた。施設入所(入院)後にその高齢者を訪ねたとき、ほとんど同一人物とは思えないほど変わり果てた姿に直面し、愕然とさせられることが幾度もあった。

「いったい何があったのだろう」

わずか数週間のあいだにすっかり生命力が萎んでしまった高齢者

 

高齢者はこうした環境移行の中で、ふたたび生命力を回復していくことはできないのだろうか。

 

高齢者の生活の場としての施設、高齢者の生命力が萎んでしまわない施設を計画する際、その立脚点をどこに置くのか。筆者はそれを「地域での暮らし」におきたいと思う。

 

高齢者が地域で生活を続けているときの生命力の満ちた状態を、「原形」として押えておくことがなによりも大切 

(『自宅でない在宅 ― 高齢者の生活空間論 』より)

 

2004/11/28 「もの忘れフォーラム」に参加

 

 

2004/12/18 第8

鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より

 9「いるだけでいい」「いつ死んでもいい」と言い切れるとき

 

 

2005/2/5 新年会

 

 

2005/3/5 第9

今回は、滋賀県の特別養護老人ホーム「能登川園」を訪ねて、〈ケア〉の現場を見学し、副施設長の高井時男氏から〈ケア〉論を伺います。

高井氏は、今まで、特養8施設で働かれ、全国300以上の特養を見て来られました。そのなかで培われた〈ケア〉論。

彼は、今、その〈ケア〉実践の先頭に立っています。

「ユニットケア」。高齢者の尊厳をはかり、お年寄りひとり一人を大切にする〈ケア〉として、能登川園が推し進める〈ケア〉。“個別ケア”のために最も有効とされる〈ケア〉。

その〈ケア〉実践のために取った高井時男氏の手法は……。

その強引なまでの指導力と、行動力。

能登川園から学ぶことは少なくありません。

 

 

2005/5/28 第10

・「認知症高齢者ケアマネジメントセンター方式」について (報告:井藤 晴美)

 

・小澤勲著『認知症とは何か』(岩波新書)

 

 

2005/6/25 第11

鷲田清一著『「聴く」ことの力――臨床哲学試論』(TBSブリタニカ)

 

 

2005/10/25 第12

鷲田清一著『「聴く」ことの力――臨床哲学試論』(TBSブリタニカ)

 

 

2005/11/13 第13

〈ケア〉を糸口に語り合い。

    ノーマライゼーションと施設ケアについて

    高齢者への質の高いケアとは

 

 

2006/1/15 第14

鷲田清一著『「聴く」ことの力――臨床哲学試論』(TBSブリタニカ)

 

 

2006/3/5 第15

広井良典著『ケアのゆくえ 科学のゆくえ』(岩波書店)の「はじめに」と第1章「サイエンスとケアの分裂と融合」を読んで、分かったこと、分からなかったこと、考えたことなどを出し合って、話し合い。

対話部分だけでも読み応えがあります。

これからしばらくの間、この本と付き合うことになります。今回の範囲は、この本全体の「見取り図」のようなものだと著者は書いています。

 

 

2006/4/16 第16

広井良典著『ケアのゆくえ 科学のゆくえ』(岩波書店)の第2章「医療とポストモダン」。対話部分だけでも読み応えがあります。

この章は、医療分野における「科学とケア」の関わりや新たな方向を吟味するものです。若干煩わしいと感じる方は「対話」の部分だけでも読んで次に進んで下さい、と著者は書いています。

 

 

2006/6/18 第17

広井良典著『ケアのゆくえ 科学のゆくえ』(岩波書店)の第3章「ケアの政治学のために」

 

この章では、社会保障や福祉国家、コミュニティ、環境とエコロジー、そして「関係性」ということなどについて考察します。

 

 

2006/7/29 第18

広井良典著『ケアのゆくえ 科学のゆくえ』(岩波書店)の第4章「自然のスピリチュアリティ」

 

 

2006/10/21 第19

広井良典著『ケアのゆくえ 科学のゆくえ』(岩波書店)の終章「ケアのゆくえ/科学のゆくえ――〈関係性〉の組み換え」

 

「成長・拡大なき時代」のケアは、科学は、どうあるべきか。時代の転換点にいる私たち。その大きな課題の前で、私たちに出来ることは何か。

〈ケア〉とは何か。広井氏は、〈ケア〉を最も広い意味で「人と人との間の『関係性』(関係のあり方)」としてとらえたいと述べています。「つながり」です。
個人と共同体(コミュニティ)とのつながり。自然とのつながり。スピリチュアリティとのつながり。そして、独立した個人と個人のつながり。
今、こうした「つながり」が希薄になっています。喪失しています。
ケアとは、この「つながり」を作っていくことでしょうか。
また、「ケアとしての科学」という視点が示されました。
科学がケア的な要素をもつと説明されています。


さて、今回も、ご馳走がたくさん並びました。
もちろん、舌鼓を打ちながら話が弾んだのは申し上げるまでもありません。

 

鷲田清一著『「聴く」ことの力』の続編とでも言うべき『「待つ」ということ』(角川選書)が書店に並んでいます。

 

 

2006/11/25 第20

鷲田清一「〈老い〉はまだ空白のままである」(『中央公論』2006.1所収)を読んで、分かったこと、分からなかったこと、考えたことなどを出し合って、話し合い。

鷲田氏は次のように述べています。……「老いは人にとって自然な過程であり、やがて死へと至る途上でもある。だから、介護という問題に直面したことで、肉体の衰えにマイナスのイメージを植えつけるのは、大きな過ちではないだろうか」

 

 

2006/12/23 第21

(1)小澤勲編著『ケアってなんだろう』のなかの「まえがき」と「情動・言葉・関係性」部分、と、(2)忘年会、です。

読むこと、考えること、話すこと、聴くこと、そして、食べること・飲むこと。
私たちが大切にしていることです。

この狭い寂しい部屋を、暖かくしてやってください。

 

 

2007/1/28 第22

・前回の残り『ケアってなんだろう』滝川・小澤対談部分

・新年会

 

 

2007/3/18 第23

大井玄著『痴呆の哲学』(弘文堂)第一章「痴呆はなぜ恐れられるのか」を、今月と来月、2回にわたって学習します。

 

この本の「はじめに」で、著者はこう述べています。

「かつて痴呆に成ることが抑えようもなく怖かった時分がある。」

「年月を経た今、(中略)かつての恐怖感が消滅してしまっている。」

「なぜそのような変化が起こったのか。」

大井氏は「わたしの痴呆についての認識の変化を知ってもらう」ためにこの本を書いたと言います。そして次のようにも述べます。

「わたしの痴呆老人観が自分の人間観や世界認識ともつながっている」。

 

この本の重要なキーワードの一つが「純粋痴呆」。

中核症状だけで、周辺症状を現さない状態とでも言いましょうか。「痴呆老人が環境に適応して満足している」状態です。

果たして、そのような状態が実現可能か。

実現するにはどのような条件が求められるか。

その根底にある人間観や世界認識とは……。

 

 

2007/4/22 第24

大井玄著『痴呆の哲学』(弘文堂) 第一章「痴呆はなぜ恐れられるのか」 後半

 

認知力の低下した者が経験する世界はどのようなものか。

大井氏は、西田幾多郎やウイリアム・ジェームズの指摘した「純粋経験」に似てくるのではないか、と述べています。 「純粋経験」って、何?

その「純粋経験」は、認知症ケアについて何を示唆し、教えているのか。

私たちはそこから何を学ぶのか。

 

認知症の多くの人に「人格」の変化が見られます。

認知症になると、「わたし」「自己」「自我」はどうなるのでしょう。

そもそも、「人格」「わたし」「自己」「自我」って何?

「わたし」や「自我」などを考えることが、認知症ケアにどう結びつくの?

というか、「ケア」以前に、自分自身にとって「認知症」とはどういうもの……

 

この本には多くの事例が紹介されています。

そうした具体的事例などを手掛かりに、読み進めていきます。

 

 

2007/5/12 第25

大井玄著『痴呆の哲学』(弘文堂)第2章「痴呆を通して心を考える」を、今月と6月、2ヶ月かけて学びます。

 

第1章を読み終えました。読み応えのある本ですね。

学ぶことは力を貰うこと。この本を読みながらそんなことを思ったりします。

 

認知力の低下した者が経験する世界はどのようなものか。

大井氏は、西田幾多郎やウイリアム・ジェームズの指摘した「純粋経験」に似てくるのではないか、と述べています。 「純粋経験」って、何?

その「純粋経験」は、認知症ケアについて何を示唆し、教えているのか。

私たちはそこから何を学ぶのか。

 

認知症の多くの人に「人格」の変化が見られます。

認知症になると、「わたし」「自己」「自我」はどうなるのでしょう。

そもそも、「人格」「わたし」「自己」「自我」って何?

「わたし」や「自我」などを考えることが、認知症ケアにどう結びつくの?

というか、「ケア」以前に、自分自身にとって「認知症」とはどういうもの……

 

この本には多くの事例が紹介されています。

そうした具体的事例などを手掛かりに、読み進めていきます。

 

5月例会には、中学1年生の参加もありました。

 

 

2007/6/2 第26

『痴呆の哲学』 第2章「痴呆を通して心を考える」 主に章の後半部分

 

2章の後半は、認知症と「自我」「人格」などがテーマです。

 

「「わたし」は記憶によって過去の自分とつながっており、現在とは視覚、聴覚、触覚などの五感を通じて環境とつながっている。また、「いま」という時と、「どこ」という場所についての見当識もそのつながりを確かにしている。しかし、このようなつながりがしっかりしている人は、それを意識しない。」

 

認知症になると、記憶や見当識が障害を受けることで、「わたし」(「自我」)が脆く、不安定で、不確かなものになる。

 

「「わたし」が「わたし」であるためには、記憶や見当識のような認知能力もさることながら、「わたし」を認めてくれる「わたし」とつながった人たちが必要である。」

 

認知症が進んでくると、現在の人格から離れて、若い頃の人格に戻る現象が起こる。この「回帰人格」をどう見るか。

 

認知症のために、彼(彼女)に押し寄せる大きな不安、苦しみ、悩み。これを緩和してくれる道筋が用意されている。それが、「回帰人格」である。苦しみから救われる道、認知症になっても「安住」できる場所、それが、若い時期の愉しく充実していた時だと考えられないか。防衛的な働きとして、若い頃の人格に戻るのではないか。

 

 

2007/7/15 第27

『痴呆の哲学』 第3章「痴呆とコトバのない世界」。最終章です。

認知症がさらに進むと、ことばが失われ、ことばとつながった人格も消失していきます。失われることで、その意味が見えてくる。ことばによるコミュニケーションの意味は何か。さらに、ことばが無くなってゆく先はどんな世界か……。

 

私たちは、この本と半年間、付き合ってきました。

「ぼけるのが怖い人のために」という副題がついています。

確かに、私は、認知症になりたくはないけれど、まぁ、なったらなったで仕方がないか、ぐらいには思えるようになりました。

「老い」「衰え」や「呆け」を受容することが、一つの要点になります。そこでは、受容の「文化」が問われます。

「競争社会」の「能力主義」的な人間観や、「効率」や「生産性」などの呪縛から解放され、「壮年期に働いていた人が年取り、ニライカナイのご先祖たちにもどる時期には、それまでとは異なる言動が現れるのも人生の自然な変化であり過程だという人間観」を持つことです。

 

例会で「偽会話」が話題になりました。

認知症のAさんとBさんが和やかに話し合っている。よく聞くと、会話の内容は全くかみ合っていない。ふたりはそれぞれ別のことを話している。それでも、とても楽しそう。これが偽会話です。

「痴呆の人たちの行う偽会話は、社会的生物としての私たちが用いるコトバの、見のがされやすいが本質的な働きを示唆している」。この会話において重要なのは、情報伝達や論理の正しさではない。

コミュニケーションの本来の意味が「親密な関係をつくる」や「共に楽しむ」であるとすれば、偽会話は十分に本質をついています。

偽会話では「うなづき」が大切なこととして観察されています。相手への肯定、同意です。

この相手は、自分にとって「味方」であり親愛感が持てる、そして、その「つながり」を確認しあう。そんな場が偽会話でしょうか。

とするなら、ケアする人の「親密な関係をつくる」ための意図的な「偽会話」は許されるかのではないか。そんな意見が出ました。実際に現場では、認知症の方に「嘘」で応じることも少なくありません。

私たちには、「嘘をついてはいけない」という倫理があります。たとえ、相手が認知症の方であっても、嘘は許されないとする意見があります。

こうした議論は、本質をふまえて行わねばなりません。

 

人の生き方を本質的に考えるとき、認知症の方とそうでない方に、どれだけの違いがあるのか? この本のなかで、繰り返し問われています。

 

 

2007/9/1 第28

『働きすぎる若者たち 「自分探し」の果てに』 阿部真大(あべ・まさひろ)著
生活人新書221NHK出版)

 

著者は1976年生まれの社会学者で、本書の意図を、「この本は労働×良心の掛け合わせでワーカーホリックになっていく若者の話」だと語っています。読みやすい本なので、一気に読めます。
本を勉強するというより、この本をきっかけとして介護の労働的側面を議論できればいいなと考えます。

(西川勝)

 

 

2007/10/7 第29

今回から、F・ナイチンゲールの『看護覚え書』を取り上げます。まず、序章から。
古い本です。しかし、ここにケアの原点のひとつがあるのではないかという意見を受けて、この本を選びました。対訳本を選んだ関係もあり、本の入手に時間がかかりましたが、何とか本が届きました。
「何が看護であり、何が看護でないか」これが本の副題です。
この「看護」を「ケア」に入れ換えて考えるのはどうでしょうか。

 

『看護覚え書』の読書会を行ってきた小澤道子氏は、「読書会の楽しみ」として次のことを挙げています。
ひとつは、ナイチンゲールが自らの体験から記した言葉と、読書会メンバーの体験との間を往復させながら読み進めていけること。
もうひとつは、19世紀にナイチンゲールが問いをたて、それに答えたこの本で、今のこの時代にいる私たちが看護〈ケア〉に対する普遍的価値を呼び起こさせる言葉と出会えること。この二つの楽しみです。


ナイチンゲールは「はしがき」で、こう述べています。いかに看護するか教えるつもりはない。考え方のヒントを与えるためにこの本は書かれた。いかに看護〈ケア〉すべきか、自ら学び考えてほしい。
この本の中の言葉は、現在の私たちが抱える〈ケア〉の課題や問題を考えるなかで生きてくるのでしょう。


「序章」でナイチンゲールは「病気」の一般原理を次のように立てます。
――病気というものは、……修復の作用過程なのであり、……毒され衰弱する過程を治癒しようとする自然による働きなのであり、……病気がどんな結果で終わるかは、修復しようとする過程が作用している間に決定される。……病気につきものと思われていた苦痛の原因が病気にあるとは限らない。

では、苦痛の原因は何か。たとえば「新鮮な空気や陽光、暖かさや清潔さや静かさを適当に保ち、食事を適切に選び管理する」ことが欠けるために苦痛や苦しみが生じる。
苦痛の原因は修復の作用過程が中断されることにある。

「患者の体が冷えたり、熱が出たり、めまいを起こしたり、食事のあとに気分が悪くなったり、褥瘡ができたりするのは、たいていは病気のせいでなく、看護に問題があるのです。」

看護がなすべきことは何か。ナイチンゲールは、この問いにこう答えます。
「看護は修復過程を助けるべきである。」

 

 

2007/12/1 第30

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』 第1章~

西川勝さんが「修徳」の広報誌に次のような原稿を寄せています。ここに紹介します。

 

みなさん、はじめまして。西川です。

最近、京都の仲間たちと一緒にナイチンゲールの『看護覚え書』という本を読んでいます。そのご縁で、この文章を書くことになりました。どうぞ、よろしく。

ナイチンゲールは有名なナースですが、19世紀のイギリスで活躍した人なので、もう古くて駄目だと思っていませんか。そんなことはないんですよ。科学的な医療技術が普及している現在においても、「どのようにすれば、病む人の苦しみや痛みを抜き去り、心の芯から慰めることができるのか」は簡単には答えられない難問です。人間の生老病死に関わる問題は、一人きりでは解決できないものです。必ず、誰かがその人に関わる必要が出てきます。どのようにして救いの手を差し伸べるべきなのか。目の前に苦しむ人がいて、何をするべきか。考え悩むことは今も昔も変わりません。だから、「何が看護で、何が看護でないのか」を深く考え続けたナイチンゲールの言葉は、いまでも真剣に耳を傾ける値打ちがあるのです。ナイチンゲールは看護という言葉を使っていますが、その意味は現在よりも広いものです。特に『看護覚え書』は、ふつうの市民に向けて書かれた書物ですから、介護や世話を含むものとして「ケア」と置き換えてもいいでしょう。
 さて、ここでナイチンゲールの重要な指摘があります。「病気にはつきもので避けられないと考えられてる症状や苦痛が、実は全くその病気の症状などではなくて、全然別のことから生じている場合が非常に多い」というものです。別のこと、すなわち、病人のおかれている環境やケアの内容が、病人をますます弱らせる症状や苦痛の原因となっていることに気づきなさい。そして、いかにケアするべきかを、しっかりと考えて実行しなさい。きわめて厳しい指摘です。ナイチンゲールは「いかに看護するかを教えるつもりはありません。彼女たちに自ら学んでほしいと願っています」と、突き放します。ケアに関して教えられたことが、たとえ権威ある教えであっても、ケアする者の責任において自ら考えることを抜きにしてはならないのです。
 ここ数年、高齢者ケアに関する考え方はめまぐるしく変化しています。声の大きさ、数の多さにだけ惑わされないように、自分で考えることが大切です。何がケアで、何がケアでないか。当たり前と思っている自分たちのケアが、高齢者の不幸の源とならないように、ナイチンゲールにドキッとしましょう。

 

 

2008/1/13 第31

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』 第2章

 

前半は、F・ナイチンゲールの『看護覚え書』(第2章「住居の衛生」)の読書会。そして後半の懇親会では、テーブルに並びきらないほどの美味しいものを囲んで、新しい人も打ち解けて、篤い話が続きました。

 

ケアの現場に身を置く人たちが、ふだん思ったり考えたりしていることを話す。その話を受けて、別の方から新たな体験談や意見などが出される。また、それに触発されてか、仕事の悩みをぽつぽつ語りだす人もいる。日本酒を手酌しながら愚痴ったり考え込んだりもある。

「ケアの現場」と一言でいうけどそれはいろいろ。現場は違うけど、どこかでつながっているのか。何か、ここに集まった人たちと触れ合うなかで、少し元気が出てくるような気がする。その「関係」のなかで、自分自身の心のなかや自己が置かれた場が少し見えてくるのだろうか。

 

難しいことはわかりません。

でも、学ぶことは楽しいということが少しわかります。

一人で思い悩むより、他者との関係のなかで自分を見つめることが大切だということもちょっとわかります。

誰かといっしょに食べたり飲んだり、語り合ったり、歩いたり、寄り添ったりすることは、時には疲れることもあるけど、人にとって、とても重要なことなのだとわかります。

 

 

2008/2/28 第32

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』第3章「小管理」

 

「小管理」とは、「自分が不在の際にもその仕事が行われるよう計らえる技術」であり、「患者に必要な看護の要点が、自分のいない間もずっとおろそかにされないように取り計らう」ことです。「非常に献身的な友人や看護婦でも、四六時中その場にいることはできないし、そうすることが望ましいわけでもありません。」

 

自分が不在の時に自分が責任を持つ患者に事故が起こった場合、「「不在」そのものが悪いのではなく、「不在」を補う管理が欠落していたことが責められるべきなのです。」

 

「責任者たる人物は、(なすべきことをいかにして常に自分自身で行うかではなく)なすべきことが常に行われるよう、いかに手立てを講じるか、という簡単な問いを常に自分に投げかけてほしい」。「自分の不在から生じえる不都合を解消するために、いかに手立てを講じるかということです。」

 

私たちがケアに携わる際、このケア(仕事)は自分にしかできない、とか、自分以外の誰かに代わったらうまくいかないのではないかと思ったりすることはないでしょうか。

ナイチンゲールは、「自分以外の誰もがわからなくて扱えないことに誇りを感じ」るのではなく、すべてを他の人たちに任せてもいつも通りに事が運び、決して皆が困ることがないことをこそ誇るべき」と述べます。

 

 

2008/3/15 第33

今例会は今までと趣向を変えて、鷲田清一先生の公開講座に参加することになりました。そして、講座のあと、会場近く(木屋町あたり)で懇親会を行います。

思いおこせば、この会は、鷲田先生の本を読むことから始まりました。『「聴く」ことの力』『老いの空白』『〈弱さ〉のちから』などを、「難しい」「わからない」などと言いながら読んでいました。でも、そこで学んだことが、いつしか、自分の中の重要な部分に住み込んでいるのでした。

そして、鷲田先生の縁から、西川勝さんが会に参加するようになり、今に至ります。鷲田先生は、今は大阪大学の総長という偉い人になっていますが、私にとっては、身近で大切な存在の一人(と勝手に思っている)に変わりはありません。

 

 

2008/4/26 第34

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』第4章音、第5章 変化

 

ナイチンゲールの、看護者に対する言葉は辛辣、刺激的です。

 

「不必要な音や、心に何か予感を抱かせるような音は、患者に害を与える音です。病人に悪影響を及ぼすのは、音の大きさ、すなわち耳という器官に伝わる刺激の大きさではないようです。」
病んで狭い空間にいる人にとって、ドアの向こうで聞こえる囁き声、あるいは室内でのひそひそ話は、疑心暗鬼のもとにもなるし、私たちの目の前にいる方々がどんな思いをしているか想像力を持って配慮できたらいいと思います。ナイチンゲールは「不必要な音を立てるのは、もっとも残酷な配慮の欠如。」といいます。

 

「患者の目に映るものの形の変化や鮮やかな色彩は、実際に回復への手段となります。」「病人のベッドに窓からの景色や何らかの変化を与えずにいるとしたら、それは病院に調理場を設置しないのと同じこと」とピシャリ。飢えた目の変化に対する渇望は、飢えた胃袋の食物への欲求と全く同じ。

ナイチンゲールの文章を読み、自分が今、現場で感じていることをその文章から考えてみる機会が楽しいと思えた今回でした。また、一人で納得するのでなく、会の仲間と、おもしろいと感じたところを指摘しあい、その場で、なるほどと気付いたりすることでナイチンゲールの言葉が身近に感じられるのがいいなと思います。

 

 

2008/5/25 第35

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』第6章食事 からです。食事は「いのち」そのものにつながっています。何が、看護であり、看護でないか。ナイチンゲールの問いかけを、食事、食べ物から考えてみることに興味津々です。 (飯田和代)

 

 

2008/6/8 第36

今回の「〈ケア〉を考える会」は、6月8日、18回認知症介護研究会」に参加し傍聴します。

会の後、希望者による食事会も予定しています。

・報告:春日キスヨ 「虐待認知を阻むもの――高齢者虐待問題支援者の語りから」
・討議:「第二期」認知症介護研究会の体制について
 
「第一期」認知症介護研究会の成果について

 

2008/7/13 第37

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』第9章「日光」、第10章「部屋と壁の清潔」、第11章「身体の清潔」、第12章「余計な励ましと忠告」

 

ナイチンゲールがこの本のなかで繰り返し説いていることは、ケアの環境をよりよいものにすることであり、空気や温度、日光、音、病室・寝具、衛生・清潔、食事などへの深い配慮とその管理のしかたです。

看護やケアで大切なことは、患者にとってよりよい環境を整備・管理し、患者の自然治癒力や生命力を最大限に引き出すことです。よりよい環境が、健康な体になっていく過程を助ける、と彼女は強調します。

 

現代の主要な看護理論は、看護師と患者の関係(看護師は患者とどのような人間関係を作るか、その対人関係のあり方)を強調するものです。今の看護教育の中心のひとつがここに置かれているようです。

ナイチンゲールの考え方を、今、再認識することの意味は、このあたりにもないでしょうか。

 

 

2008/9/7 第38

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』 第13章「病人の観察」

 

 

2008/10/12 第39

F・ナイチンゲール著『看護覚え書』終章、補章

 

昨年10月から、ちょうど1年間、この本を読んできました。

こんなに長く、ひとつの本に取り組んだのは、鷲田清一著『老いの空白』以来かもしれません。

思い出すと、この会は鷲田先生の本を読むことから始まりました。

 

〈ケア〉って何だろう。

〈ケア〉の哲学というようなものがあるのだろうか。

 

そんなことを思いながら、いろいろな本を読みました。

読んだことが、すぐに〈ケア〉の現場で生かされるというようなことはほとんどありません。しかし、そこで学んだことが、あとから、じわじわと、ボディーブローのように効いてくるのです。

といっても、読書会の後の食事会・飲み会が楽しくて、この会は今まで続いてきたようなところもありますね。

 

本を読むこと。 語り合うこと。 食べること。 飲むこと。これらはひとつのことなのです。そのなかで、「自分」が作られてきたようにも思います。

 

長田弘さんは『幸いなるかな本を読む人』のなかで

「わたしが本について、ではなく、わたしが本によって語られているという、どこまでも透きとおってゆくような感覚」

と述べています。「わたし」と「本」の関係も、「双方向」です。

 

「「私」とは、生活の歴史のなかで積み上げてきた他者との共同的な関係の、その場その場の集大成である」

浜田寿美男氏のことばです。その「他者」には「本」も含まれると考えます。

 

 

2008/11/2 第40

『ケア その思想と実践2 ケアすること』(岩波書店)より、

認知症を生きる人たち」(小澤勲)

この会の後、私たちは小澤勲さんの訃報に接しました。
『ケアすること』に収められた小澤さんの論文「認知症を生きる人たち」は、「小澤・認知症論の集大成のよう……」。そんな声がありました。
20
ページ弱の短い文章ですが、これほど、認知症について深く分かりやすく書いた文章があるだろうかと思わせます。 この文章に懸けた小澤さんの気持ちと、その力を考えずにはいられません。

2003年も終わりに近い頃、小澤さんの講演会がありました。
もうこの時、小澤さんは癌に侵され、もし講演の途中で倒れた場合にと、代わりの講演者も用意されていました。
この講演を聞いた後、そこに参加していた4人から、この「〈ケア〉を考える会」が始まりました。

会で、小澤さんの本『ケアってなんだろう』(医学書院)を読みあったこともあります。
小澤さんから、どれだけ多くのことを学んだことでしょうか。
いろいろな意味で恩人の小澤さん。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

2008/12/21 第41

『ケア その思想と実践2 ケアすること』(岩波書店)

より、「ウソつきは認知症ケアのはじまり、なのか?」(出口泰靖)を読んで話し合います。                                                      西川勝さんが、著書『ためらいの看護』のなか、「ケアの弾性―認知症老人ケアの視点」で、出口泰靖論文について述べています。示唆に富んで参考になります。

 

今年最後の(ケア)を考える会 第41回例会に参加して               (宇治の野中理子)

 

早いもので私がこの例会に参加させて頂き1年が経とうとしています。深草のケアマネの野中です。

今回の例会では、『ケアすること』(岩波書店)より、「ウソつきは認知症ケアのはじまり、なのか?」(出口泰靖)を読んで話し合いました。題名がおもしろくひきつけられたので読み始めたのですが、なかなか深い読み込みを求められたようにおもいました。

 

普段あまり深く考えることなく対応していた認知症の方に対しての言動を振り返えることができました。認知症の方が混乱されている時に、介護者はその方に合わせて「うそ」をつきますが、それは「やさしさの演技」「思いやりをもったウソ」であり、「相手にあわせる」「回帰した過去につきあう」という行為であるはずで、「ウソつきは認知症ケアのはじまり、なのか?」と問いかけています。そして、安直なウソと配慮したウソとの明確な違いはあるのだろうかとさらに問いかけてきます。

 

出口氏は、コミュニケーションについてもふれ、コミュニケーションは「ふるまい合い」「呼応関係」ととらえ、コミュニケーションそれ自体が価値を持っており、コミュニケーションを情報を得る目的に利用する手段として捉えるのでは、コミュニケーションの取り方にも個々人で意味合いが違ってくるとしています。『「何かをしてもらうため」の情報伝達という目的にやっきになり、その為の手段として「うそ」や「だまし」をしてしまう、ということがあると思います。そこに「ふるまい合い」や「呼応」が介在する余地はあまりないでしょう。』と書いています。なんだかなにげなく認知症のかた達にとっていた言動が、実はこんな風にとらえて見つめ直していくことができるのかと、参加者同士でうなってしまいました。なかなか深くここまでの事を普段のケアの中で考えることがない日常です。

 

そして、認知症の方と接してどうしてもぬぐえない、自分に対する嫌悪、無力感、不可解さ、慢性的な葛藤などの感情を「いけないこと」として回避するのでも、棚上げするのでもなく、それらを自覚し吟味することによって、援助に柔軟さや自由自在さあるいは、「懐の深さ」や「幅の広さ」を獲得できるとしています。これが、実際現に私たちが読書会を通して今やっていることですよね。

 

読書会の内容の振り返りはこれくらいにして、その後の忘年会も盛り上がりました。それぞれが思っていることを遠慮なしに口に出して問いかけ、応える事ができる形式的でない気軽な雰囲気をとても大切にしています。私的なことから、ケアのことからいろいろな話題が飛んでいました。

 

ケアを一緒に考える事を通して元気をもらった一年でした。また、みなさん来年もよろしくお願い致します。

最後になりましたが、毎回場所を提供してくださって、例会の連絡を送ってくださっている林さん、一年間お疲れ様でした。

 

皆さん、良いお年をおむかえください。

 

 

2009/2/1 第42

『ケア その思想と実践2 ケアすること』(岩波書店)より「感情労働としてのケアワーク」。 西川勝さんからも問題提起があります。

 

■会に参加された西川勝さんの「感情労働」についての話を、次のように受けとめました。

――「感情労働」ということばや、ケア現場の“外”から見ただけの感情労働論に振り回されないようにしよう。

ケア現場の“内”で働いている生身の人間として、立場、時、場所、相手との関係、自分自身の心身の状況などによって、刻々と変わるその心の中、気持ち、感情の微細なところは、感情労働論では語られていないし語られない。文章には書けないような、表に出したら周りから非難を浴びそうな感情さえもが、ケアする人の心の中に去来する。そうした「感情」のすべてを、否定しないで受け入れる(利用者の気持ちを受容するように自分の感情も受容することか)。

現場の、その時その場で移り変わる微細な気持ちや感情は単純ではないし理屈や言葉で説明できないことがいっぱいだ。しかし、そこに大切なものがある。これは、ケア現場の人間が、自分で発言しなければならない。すべてを語れるものではないにしても、現場の人が声を出していくしかない。「当事者による感情労働論」、いや、もうここでは、「感情労働」という枠にとらわれるのはやめよう。ケアを一つの世界に閉じ込めないほうがよい。

ケアする人が自分自身のケアを見つめて語る、その地道な努力がケアを深めることにつながるのではないか。

とはいえ、ケアを過大に評価しすぎないことだ。ケアは、その人(ケアの両当事者)の生活や人生のなかの一部のことにすぎない、ともいえるから。

 

そういえば、西川勝さんは、38日に、大阪ドーンセンターで開かれる「感情労働・公開研究会」で、「感情労働って言うな」と題して話すそうです。

 

■さて、去る227日、淀川キリスト教病院ホスピスの看護師田村恵子さんの話を大阪で聞きました。「自分の生を生ききる」と題したその講演とその後の話し合いの中で、田村さんは、自分の感受性を大切にし、自分の感情に正直になる、ということを次のように話されました。

――死の準備をしながら生を営むがん患者と話すなかで、自分が感じたことを大事にし、自分が感じていることに忠実になる。患者が発することばからその深いものを感じ取る。涙が出てくるときは泣く。

若い看護師にも「自分の感情をコントロールしなさい」なんて言わない。

 

田村さんからは、こんな話も聞きました。

――・看護では、あるがままの状態を基盤に、基本的ニーズを満たし、患者が望むことを大切にする。

・「あなたは、あなたのままで、大切です。あなたの人生の最後の瞬間まで大切です。」

・ケアで大切なことは、「関係性」であり「相手の力を信じること」。

・(田村さん自身)明日死んでも後悔しないように、毎日を精一杯生きよう、と思っている。

 

田村さんの話がもっと聞きたくて、セミナー後の懇親会に参加し、終電車で帰ってきました。

 

 

2009/3/22 第43

『ケアすること』(岩波書店)より、「追い衰えゆくことをめぐる人々の実践とその歴史」。

筆者の立命館大学準教授の天田城介さんをお迎えする。

 

■3月のケアを考える会では、天田先生に直にお話ができる機会で本を書かれた思いなどをお聞きできて非常に面白かったです。
介護現場では「人ない・金ない・物ない」と言われているなかで、皆ギリギリの状態で働いている。ギリギリが故に同じテーブルに居ても立場が違うと仲たがい、不和­が生じ職場環境がよろしくない状態になっている。 というようなお話があったと思います。これを聞いて、少し自分に余裕を持たせることが出来たように思います。相手もギリギリなのだと思うことで、苦しい間柄の方­とは一呼吸おいてから接するように自分の意識の中で変化が生まれたようです!
また次回が楽しみです。  (小澤朋子)

 

 

2009/4/19 第44

前回に引き続き立命館大学準教授の天田城介さんをお迎えし、「老い衰えゆくことをめぐる人びとの実践とその歴史」の2回目。

 

 

2009/5/17 第45

谷川俊太郎・徳永進著『詩と死をむすぶもの』(前半部分を中心に)

 

 

2009/6/21 第46

大阪大学の浜渦辰二教授(臨床哲学)を中心に進めます。

浜渦さんより……「実は、先日(4月下旬)に北欧(フィンランドとスウェーデン)に行ってきましたので、その最新の報告をしましょう。北欧は二度目で、一度目は二年前にスウェーデンとデンマークの高齢者ケア施設の見学に行ってきましたが、今回は、北欧現象学会での発表と、「現象学とケアリング」研究会に参加してきました。3年前に行ったフランスと南ドイツのホスピスとスピリチュアル・ケアの研修と併せて、根本にある「ケア」についての考え方・文化の違いということについてお話しします。」

 

浜渦さんは、大阪大学に来られる前、静岡で「ケアの人間学」合同研究会を行っておられました。大学・学校関係者、医療・看護関係者、福祉・介護関係者など、幅広い人たちが集まって、「「ケア」の問題を、「人間とは何か」という視点をもちながら、ともに考え、意見交換することを目的」にしていました。

この研究会についてもお話しいただきます。

 

 

2009/7/19 第47

テーマ:「生きるとは、死ぬとは、……」

参考文献:谷川俊太郎・徳永進著『詩と死をむすぶもの』(後半部分を中心に)

 

会に参加された大阪大学の浜渦さんの話を聞いて、次のようなことを考えました。

 

この会は、ケア関連の著書、ケア現場からの報告などから、〈ケア〉の課題や問題について、学び、突き詰め、深めつつ、〈ケア〉の哲学(あるいは〈ケア〉の理念)を追究することを目的としています。

 

ケア現場では、さまざまな問題や課題に直面しています。

その問題や課題を解決するためには、どんな取り組みが必要でしょう。どんな取り組みが行われているでしょう。

そして、その取り組みはどのような考え方、理念に基づいているでしょうか。

 

例えば、「利用者のため」とか、「高齢者の尊厳」、「個別ケア」などが声高に唱えられます。

ところが、「利用者のため」と言いながら、実際は施設管理者の意向のままに施設運営が為されて、利用者の尊厳が守られていないなどという事例が見られます。この施設管理者はどのような考え方でそうした運営をしたのでしょう。彼の「哲学」はどのようなものだったのか、あるいは、彼は「哲学」を持っていなかったのか……。ケア施設の管理運営には「〈ケア〉の哲学」が必要です。

 

民間営利企業の管理運営と、ケア事業の管理運営は同じでしょうか。

もし同じならどのように同じで、もし違うならどのように違うか。

ここでも、「〈ケア〉の哲学」がキーポイントになると考えます。

 

ケアの技術や、事業管理運営の方法は重要です。しかも、そうした技術・スキルは絶えず進歩します。そして新しいスキルに更新することが求められます。ところで、そうした新しい技術や方法は、それ自体としてそれを用いる人に影響を与え、その人を支配することがあります。そこで、「〈ケア〉の哲学」により、技術や方法をコントロールすることが求められます。

 

私たちは「〈ケア〉の哲学」を求めていきます。まだまだ未熟で途上ではありますが、この「〈ケア〉の哲学」に基づいて、ケアに取り組めるようになりたいと思っています。

 

 

2009/9/6 第48

・テーマ:胃ろう・経管栄養からみた医療とケア

人は口から食べることができなくなったら寿命でしょうか。

日本ほど胃ろう(PEG)が多く使われている国はないという話を聞きます。

人工栄養の問題にも「哲学」が必要です。
・参考文献:『高齢社会を生きる』(清水哲郎編・東信堂)の第3章「胃食べられなくなったとき――胃瘻という選択肢の意味(会田薫子)ほか

 

事例発表(野中・林)と、『高齢社会を生きる』(清水哲郎編)のなかの会田薫子論文「食べられなくなったとき――胃瘻という選択肢の意味」の紹介(林)をもとに、話し合いが行われました。

以下、その内容の一部を列記します。

 

・日本は今や世界で最も多く胃瘻が普及している国の一つ。年間約20万人が新たに胃瘻手術を受けている。

・アメリカのPEGを作っている会社の人が日本に調査に来て、日本でのPEG普及率の高さにびっくりし感激していた。

・口から食べられなくなったら「はい、胃瘻」と簡単に胃瘻が作られる。口から食べるためのケアが十分に行われないまま、胃瘻になることが多い。

・胃瘻を作るとき、患者本人は、自分の意思をはっきり表明することができなくなっている場合がたいへん多い。家族や医師の意向で胃瘻が作られる。本人の意思がそこにない。本人の意思をどのようにおしはかるか。「事前指示」が課題となる。

・日本の医師の多くは、家族などに胃瘻の説明をするとき、胃瘻を作ることを前提にして話を進める。

・一部の医師は、胃瘻を作るという選択肢だけでなく、胃瘻を作らないという選択肢もあることを説明する。作る場合と作らない場合、それぞれの予測される予後について説明し、家族と何度も納得のいくまで話し合う。これは少数派。

・北欧などでは胃瘻の人が少ない。高齢者で、経口摂取の手厚い手立てや努力(ケア)を行ってもなお食べられない、ということは、もう寿命と考える。様々な努力をしたうえで。自然死。

・終末期、「患者が最後の期間を最も苦痛なく過ごすためには、人工的な栄養と水分の補給は不要なのである。」(前記論文)

・終末期における自己決定はどうあるべきか。

・「事前指示」……リビング・ウィルと代理人指示

・リビング・ウィル……あらかじめ自らの延命措置等に関して意思表示しておく文書。

・日本尊厳死協会のリビング・ウィルは自分ひとりで宣言するものになっているが、これでよいか? 私たちはひとりで生きているのでなく、家族、親しい人、地域の人、医師、ケアワーカー、などなど、多くの人との関係の中で生きている。基本的には本人の意思が重要だが、他者との共同の視点も含めて考える必要があるのでは……。

 

 

200910/18 第49

テーマ:「終末期における意思決定――人生の終わりをどのように迎えるか――自分の意思、他者の意思、そのケア」

参考文献:『高齢社会を生きる』(清水哲郎編・東信堂)の第一章「人生の終末期における医療と介護」 ほか

 

以下、清水哲郎論文「人生の終末期における医療と介護」の一部を引用、列記します。

 

・「人生の終わりの時期における医療や介護についての意思決定はどのようにしていったら良いか」という観点で、高齢者ケアのあり方を考えてみたい。

 

・(私は人生の最後の日々をどう過ごすか)……自分が衰えて、他人に生活のすべてにわたって面倒を看てもらわねばならなくなったら、――「そうなってまで生きたくない」と思う人は多い

・「そんなふうになってまで生きたくない」という私の思い、あなたの思いは、「そんなふうになっても」生きている人を切り捨てていないだろうか?

・社会は「そんなふうになった」人を手厚くケアすべきだと私やあなたが考えているのであれば、自ら「そんなふうになった」時には、社会が用意するケアの資源を率先して利用し、資源を利用するのが当たり前だという社会の常識を形成するのに手を貸すべきではないか。

・老い衰えた私がそれでも堂々と社会の中に存在し続けること、社会資源を利用することこそが私にできる貢献である。

・訳が分からなくなり、いろいろしてもらう私の姿を天下に晒すことこそが、社会に貢献している私として自己肯定できる、つまりは尊厳ある、私の終わり方ではないか。

・価値観の再構築こそが、私が高齢になって世話をされる立場になる状況を考え、その時にどのような選択をするかを考える時に、最も要になるポイントなのではないだろうか。

 

・(ケアする家族から見た意思決定)……家族の成員同志は、親密な、支えあう間柄、浸透し合う間柄であることが周囲から期待される。 親密で「一緒」という面が強い家族内では、それぞれについての意思決定に他の成員が干渉したり、また、他の成員が勝手に行うということが、日常的になされている。

・(家族がケアする者とされる者という関係の場合、ケアする者の)振る舞いがどこまで適切であり、どこから不適切となるか……適切・不適切の分かれ目は、ケアされる当人を(ケアする者が)人間として尊重しているかどうかにある。

・本人にとってのベスト・インタレストではなく、家族の他の成員の益をも併せ考えた、家族全体のいわば益の総和を考えることは、不適切なことではない。

・本人の生活を設計する力が衰えた時に、周囲の者がそれに代わって行うことはおかしなことではない。ただ、本人に現在残っている力に応じてそれを説明して、納得づくでことを運ぶようにしないと、本人の気持ちや人間としてのプライドを傷つけることになる。

 

(社会の仕組みとなったケアを提供する側から見た意思決定)……「ケアはどのようになされるべきか」ということを倫理という名のもとに考える

・そこにおける倫理原則とは、(どこかから天下ってきて指令するということではなく)、ケア活動をしている際に自らが行動原則としていることを、ケア活動をする者たちの共通の言葉で表したものに他ならない。

・ケアする者の三つの行動原則(倫理原則)

 (原則第一)相手を人間として尊重する。

 (原則第二)相手にとってもっとも益となることを目指す。(ケア利用者の最善を目指す)

 (原則第三)社会的視点から見て、公平であるようにする。(社会的視点から見た、選択の適切さ)

 

 

2009/11/29 第50

・テーマ:「事前指示」、「リビング・ウィル(Living Will)」について考える

・参考文献:A.『高齢社会を生きる』(清水哲郎編・東信堂)の第二章「予め決めておく――事前指示をどう考えるか」(日笠晴香)

  B.藤本啓子「患者の視点からリビング・ウィルを考える」( ⇒インターネットで検索してください)

 

浜渦さん、藤本啓子さんの参加がありました。

 

 

  

※この「〈ケア〉を考える会」ノートは、

一部注釈のあるもの以外は、

林道也に執筆責任があります。