ぼんやり考えたケアのこと

 

桑原 英之  

 

大晦日、帰省して昼頃家に着くと、祖母がベッドで横になっていた。寝ているのか起きていのかは分からない。テレビがついたままである。仏壇に行き、おりんを鳴らし、なんまいだとつぶやいてから声をかけると、もぞもぞ動きがあって、言葉が返ってきた。「ああ」「今帰ったの」「電車混んでたか?」。少しほっとした。

 

大正13年生。御年85歳。いまのいままで自営業を営んできた現役だったが、ここしばらく、入退院、手術、リハビリと続いた。頭ははっきりしているが、口にする食事の品数よりも薬の種類の方が上回りつつある。もっとも、年相応に老いゆき、わずらい、身体が軋んでいくことは、名誉の負傷以外のなにものでもない。苦労だらけの人生を休みなく生きてきたのだから、病気であれなんであれ、正直、少し休んで欲しい。そういう願いが確かにある。でも昼間に寝間着姿で横たわる祖母の光景には、なかなか慣れない。

 

幼稚園、小学校と、学校終わりは祖父母の家に帰り、夕食を食べた。いわゆる両親共働きである。そして祖父母も共働きであった。仕事合間にサロンパスを張り直していた祖母の様子が鮮明である(サロンパスの匂いが私にとってのマドレーヌである)。どれだけ世話になり迷惑をかけたことか、わからない。概して不遜な私も、祖父母には頭が上がらない。

 

一つ治るとすぐに別の何かに苛まれる。自分の身体でモグラたたきを繰り返しているような毎日に、祖母の体力は追っつかない。夕食時、ひととおり食べ終えてから祖母が言った。「おばちゃんはいまお母さんの世話になって、廃品になってもうて・・・」。

 

祖母の事はもちろん気がかりである。でも、そんな言葉をときおり耳にしているに違いない両親の事も、同じくらい気がかりである。手術の前後、母は入院先の他県の大学病院へ、片道2時間かけ、週3日世話しに通った。「あんたも白髪が増えたねえ…」。あるとき祖母が母にそうつぶやいたそうである。「泣けて来るやら笑えて来るやら…」。話の最後をこう結んだメールを母は私に書いてよこした。私にとって祖母である祖母が、母にとっては母の母であるという当たり前の、でもなぜかこれまで一度も考えもしなかった当たり前の事実をいまやっと理解した気がしている。

 

家族が勢揃いする食事はにぎやかである。実のある話はほぼない。というより、基本的に人の話を聞いていない。話し終わる前に誰かがしゃべりだす光景は、一昔前のロシア映画を思い起こさせる。祖母のさっきの言葉も、そんな食卓の一コマの中で漏れ出た。押し黙りそうな言葉に、家族の矢継ぎ早の言葉が応えていき、次第に元の言葉は霧消する。気づくと祖母は笑っていた。また少しほっとした。

 

話を聴く基本は、最後まで聴くことだ。私が頻繁に行っている(そして林さんと出会うきっかけでもあった)哲学カフェでも、そうしている。けれども、話が最後まで聴き遂げられないような仕方でようやく受け止められる言葉もあるのだと思う。うまく言えていない気がするけれど、ケアについてそんなことをぼんやりと考えている。

 

ちなみに、かまびすしい食卓にあって祖父と私だけはだいたい黙っている。祖父は元来話さない。一日の会話の総計時間が5分を越す日は、たぶん一年間の台風の数より少ない。私は最後まで聴いてから話そうと思っている。ただ終わる前に誰かが話し始めるので、結果的に話せないでいる。

 

病はつづき、通院も続き、服薬も、痛みも、看病も続く。祖母も母も、あるいは祖父も父も、疲労と不安で、不平や不満や不当を叫びたい気持ちどこかにあると思う。つまりそれを口にすると何かが壊れてしまうような言葉は確かに伏流している。不穏のフラグはそこかしこに立てられている。そしてその手前で、あるいはそれらを一周して、ぐっと飲み込んでいるそれら言葉をきちんと聴くことが大切な時もある。でも、我が家の食卓のポリフォニーにも、不穏のモードに応じるための別様のヒントがあるような気が、ぼんやりしている。

 

追記:この原稿を書いた後、祖母は急逝した。名をやよゑと言う。

( カフェフィロ )