〈ケア〉を考える会 (第117回)

 

今回は、司法書士の森木田一毅さんの報告を受けて、参加者で対話します。

 

林道也が1月の発表で、亡くなった母親のことを取り上げて、「いる」ようで「いない」、「いない」けど「いる」などと話したことに、「哲学者」としての森木田さんの心が強く反応しました。
「いる」「いない」ということを、もっと掘り下げてみたい。
なにか自分の中でもやもやしているものを形にしたい、と。

楽しみです。

 

■日時:2018年3月4日(日)13:30~17:30

■会場:京都市山科区安朱中溝町3−2
 山科駅より東 徒歩3~4分の民家
 (山添 宅)(安朱保育園 東隣)

■内容
(1)報告と対話
 『「いる」「いない」の存在論』(仮題)
 ~認識と存在の関係みたいなところを考えてみたい~
 報告者: 森木田一毅(司法書士)
 (参照テキストは〈道〉通信 1月号と2月号)

(2)懇親会‥‥食べながら飲みながら語り合います(持ち込み歓迎)

 

★懇親会参加者で実費(1000円程度)ご負担願います。
★申し込み・問い合わせ

 ⇒ 「問い合わせ」ページより
★どなたでも参加できます(初参加歓迎)。先着20名程度。

 

 

20180304 第117回〈ケア〉を考える会/チラシ.pdf
PDFファイル 644.2 KB

会の後で

‥‥森木田一毅(Facebookより)

本日はとりとめもない話にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。後出しジャンケンのようで恐縮ですが、少し自分のための整理もあり、感想めいたことを述べさせて戴きます(長文ご容赦下さい)。
 岸田さんのご指摘にもあったように、今回のテーマはハイデガーの思索も背景にあったことは否定できません。ハイデガーは、存在の忘却が近代の病理を生み出していると言っています。あの人の思索のための道具立ては結構魅力的なものが色々ありますが、残念ながら私には彼の存在論が理解できません(「存在の開けた明るみの中に出で立つ」なんて何のことやらです)。それでもどうも根本的な部分で、近代文明は問題を抱えていて、ターミナル・ケアのような理性・知性ではどうにもならないところでは、一層その問題性を大きくしているという直感的な感覚と結びつくように思えます(この辺が、胡散臭いと見られながらも、ハイデガーが根強く関心を惹きつけるところでしょう)。
 で、前半は、ほとんど思惑通り、ひとが「居る」ということを他者との関わりの中に見出す立論を展開して戴き、それに対して能力が衰えて関わりを失うと、存在も失うのか、という問題を投げかけさせていただきました。
 それに対して、岸田さんからハイデガーを引いて、それは「気遣い」を向けられるか、向けられないか、という指摘がありました。うまくまとめられなかったのですが、能力が衰えて他人との関わりを失っても、その人に対する「気遣い」(Sorge, Care)を失わなければ、その人は存在を失うわけではない、という反論と理解してよいのでしょうか(>岸田さん)。
 ただ、ここのところは、私の力不足もあって話がうまく噛み合わなかったのですが、私がケアを受ける側に視点を移したのに対して、ケアを与える側から問題を受け止めている方にとっては、話の流れが分かりにくかったかもしれません。
 話が前後してしまいましたが、浜田さんの提供された長田さんの二編の詩の内、これもあくまで「印象」に過ぎないのですが、後の方の詩が、ハイデガーの言う「存在」(ちなみに彼は「存在」と「存在者」を区別していて、私達が普段目にしている全ての「有るもの」は後者で、「存在」は「存在者」の存在することの根拠のようなニュアンスで使っているように思います。)のありかを言い当てているような気がしました。
 続いて、青木さんの存在意義なんて必要ですか、という投げかけは、まさにケアを受ける側に視点を移すために非常に有効だったと思います。
 最後の林さんの指摘のように、私たちはついつい介護者の視点から被介護者を見てしまいますが、哲学するという根本は、そういう日常的な視点に対して、ちょっと待てよ、と反省の目を向けることかと思っています。「ただ居るだけでいい」という言葉も、介護者側から発せられる時、恩恵的なニュアンスを宿していないでしょうか。「ただ居るだけでしかいられない」側から見ると屈辱かもしれません。青木さんの発言も、ご自身の辛い経験があって、両側の視点からとらえることができたのでしょう。
 存在証明を手放し、無一物になった時(これがまた難しい)、お互いがケアを必要とする「ヒト」という生き物のあり方が見えてくるのではないか、というのが今回の私なりの結論でした。
 
 更に、ちょっと追記。ケアを受ける側も存在証明を手放したくないのは、ケアをする側と同じ。いや、更にその思いは強いと思います。林さんとの初めてのお仕事で関わった方も、今から思えば、そこに執着し、苦しんでいたのだなあと分かります。う~ん、なんだか坊さんみたいになってきたなあ。

 

 

 

‥‥山添裕子(Facebookより)

〈ケア〉を考える会(京都)第117回、
今日は司法書士の森木田先生のお話です。
「いる」「いない」の存在論。
哲学カフェ風に森木田先生が飲み物とお菓子を準備してくださいました。
第116回では、林さんがご自宅でお母様の看取りをされた時のお話がありました。

林さんの「道」2018年1月より抜粋
~一方で、母がそこにいるように感じることもありました。
 (「霊」とかではなく)。「いる」ようで「いない」。
 「いない」けど「いる」。心のどこかに「いる」。~

前回から「いる」「いない」の存在論の議論があり
今回、司法書士として看取りをされたことも交え
森木田先生が話を進めてくださいました。

色々な意見や考え、「長田弘さんの詩」「上條さんの短歌」
「小林秀雄さんの小説の抜粋」「岸田さんのコラム」等々。
あっと言う間に2時間が過ぎてしまいました。

私自身も8年前に母を自宅で看取り、
昨年は介護付き老人ホームで父が他界。

「いない」けど「いる」、自分の中にはいつも「いる」。
「いる」と感じるのは説明できないけれど
ふとした瞬間気配を感じることがある。
ある人は「霊」と言うかもしれない。
私は否定しないし、積極的に肯定もしない。
「DNA」を引き継いでいるからかも、なんて思うことも。
答えはなくていいのだ。

母が亡くなった時、悲しむ私に夫が
「人は二度死ぬ。記憶にある間は生きている。
記憶から無くなった時が二度目の死。」と言ってくれた。
やっぱり、「いる」ってことでしょうか。