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ケアという仕事

 

浜渦 辰二  

 

 私は、長らく静岡というのんびりした温暖な地方都市で、地域のケアに携わる方々とともに「ケアの人間学」合同研究会を開催し、地域にケアの文化を育てていくことを皆さんと考えてきました。一昨年前に商人の町から大きくなった大阪都市圏に赴任してきてから、これまで考えたことのなかったケアにまつわるテーマを考え始めました。それは、「ビジネスとケア」という問題です。それを通じて、ケアを仕事とするとはどういうことかを考え直したいと思うのです。

 ここでは、「ビジネス」という語の多義性(経営、企業、仕事、職業、商売、商業、等)も、「ケア」という語の多義性(看護、介護、援助、世話、配慮、気遣い、養育、カウンセリング、等)も、そのままあえて限定しないで使いたいと思います。それによって議論が曖昧になる恐れはありますが、問題を限定した場面で論ずるのではなく、広い視野のなかで論じ、それぞれの場面を閉ざされたものにしたくないからです。ただし、"Business' business is business"(企業の本務は金儲けである)と諺に言われるように、ビジネスという語の多義性を認めながらも、まずは、ビジネスを何よりもその「本務」である「営利活動」「利潤追求」という狭い意味で捉えておき、そのうえでそれを越えるビジネスのあり方を探求する、という流れで話を進めたいと思います。

ビジネスとケア……一見すると両者は、正反対の原理で動き、正反対の方向に向かっているように見えます。多少図式化して言えば、ビジネスは利己主義的で、自ら(個人であれ企業であれ)の利益のみを追求し、他者(他社)への配慮を欠くのに対して、ケアは利他主義的で、自己犠牲をも惜しまず、他者へ献身的な手を差し伸べるように見えます。しかし、よく見ると、事態はそれほど単純ではありません。ビジネスは、必ずしも利己主義のみを原理としているとは言えず、自らの利益のことばかり考えていてはそもそもビジネスとして成り立たなくなり、長い目で見れば他者(他社)を援助することが結果的には自分自身(自社)に利益をもたらすと考え、あるいは、少なくとも他者(他社)を配慮している素振りをすることが結局は自分(自社)の利益となると考え、あたかも自らの利益のみ考えているわけではないという態度を取ることもありうえます。他方、ケアもまた、必ずしも利他主義のみを原理としているとは言えず、利他の背後に隠された利己が潜んでいると欺瞞を指摘する声は穿った見方として別にするにしても、他者への献身的・自己犠牲的姿勢という慈善(チャリティ)や博愛心(ヒューマニズム)ばかり要求されたのでは、宗教的奉仕者であれば宗教的救済というよりどころがあるし、非専門職のボランティアであれば余裕のある時に気の向くままで構わないかも知れないが、少なくともケアの職業的専門職には、それなりの自分の利益にもなるという形(経済的な保証)で、自分の仕事を評価してもらわねばやっていけない、というところがあります。

 あるいは、そもそも、ビジネスとケアとは、別々のものと切り離すことはできず、ビジネスの場にもケアの論理が入って来ざるをえないし、ケアの場にもビジネスの論理が入って来ざるをえない、というところもあります。四六時中ビジネスのことばかり考えていたのでは、心身ともに持ちません。どこかで休養、休暇、趣味、家族、友人関係などによるケアが必要となります。ビジネスに身を捧げていた企業戦士が、リストラや配置転換に遭って、うつ病になったり過労死や中高年自殺に至ったりするのも、そのようなケアが欠落あるいは不足だったからでしょう。企業のなかにメンタルヘルスの体制を作るようになったのも、ビジネスの場のなかにケアのシステムを組み込まざるをえなくなったことの現れでしょう。

 他方で、四六時中ケアのことばかり考えていたのでは、心身ともにもたないのも確かです。孤独にケア(育児・介護)に携わるストレスで精神的に不安定になり、ケアの現場が虐待(幼児虐待、高齢者虐待、障害者虐待)の現場にもなる(しかも、虐待しているという認識もないままそうなる)可能性があり、バーンアウトに陥る可能性もあり、ひいては介護疲れによる「介護殺人」に至ることもあります。ケアの専門職であれば、まだそれで生活の糧を得ているので、これも仕事として割り切ることもできるかも知れませんが、育児や介護の非専門職として家庭でのケアに関わる場合、多くは二十四時間体制のなかで疲労困憊してしまいます。二〇〇〇年から始まった介護保険制度は、いろいろと山積みの問題はありつつも、ケア(介護)を家庭の中で担うのが当然という体制から、ケア(介護)は社会全体で担っていくという体制(ケアの社会化)という方向に一歩踏み出したこと自体は評価されてもよいでしょう。しかし、社会で担うと言っても、それを税金(公的資金)で担うのか、保険(私的資金)で担うのか、民間(営利企業)に任せるのか、によって社会保障のシステムは大きく変わってきます。日本の介護保険制度は、財政は保険で、供給は制度の枠内で民間に任せることになり、それが、ケアの世界のなかにビジネスが入り込むこと、すなわち〈ケアのビジネス化〉を招き、それが問題を引き起こすことにもなっています。医療や介護といったケアの世界をビジネス・モデルで考えていいのか、という反省が生じることになります。

 ビジネスとケアを取り巻く状況を見てくると、いろいろな問題が巡り巡って、働くことの意味をどう考えるべきか、というところに集約してくるように、私には思われます。医療や介護のビジネス化において問われていたのも、また、働くことの意味であるように思われるのです。そもそも「労働」あるいは「働くこと」は、「ビジネス」(利益の追求)が目的なのでしょうか。或る論者が、「金があったら働かないか」という問いを立て、多くの人は、「食べていける資産をもっていようがいまいが、やっぱり働くべきだ」と考えるが、それはなぜかと更に問う。そして、その問いに、〈他者からの承認〉を求めてなのではないかと応えていました。つまり、彼は「他者からのケア/他者へのケア」にこそ働くことの意味を見ているわけです。彼の問題提起は、「働くこと」の意味をもはやビジネス・モデルで考えるのではなく、ケア・モデルで考えるべきではないか、つまり、〈ケアのビジネス化〉とは逆に、〈ビジネスのケア化〉ということ(ビジネスの世界に「ケアの精神」を持ち込むこと)を真剣に考えるべきではないか、ということにほかなりません。私はいま一度、こういうところから、ケアという仕事について考えてみたいと思っています。

(大阪大学教授、臨床哲学)

 

   

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