〈わたし〉〈他者〉〈ケア〉について

  ~〈ケア〉を考える会  100回に寄せて~

               林 道也 


 

〈わたし〉。

〈わたし〉はどこにいるのか。

〈わたし〉は、〈わたし〉の中にはいない。

〈他者〉の中にいる。

――えっ、そんな‥‥、何を言っているの‥‥

 

〈わたし〉は〈他者〉の中にいる。

〈わたし〉は〈他者〉の〈他者〉として存在する。

 ――まだ変なことを言っている、もぅ‥‥

 

〈わたし〉は一人では生きていけない。誰かとのつながりの中で生きている。

〈他者〉と関係を持たないでは生きていけない。

大切なのはそのつながりや関係の中身。

 ――それがどうしたの‥‥

 

〈わたし〉を思ってくれている人(他者)がいる。そのことを感じることができる。

〈わたし〉はその人(他者)に思われている。それが分かる。

その人(他者)の心の中に〈わたし〉のかげがみえる気がする。

その人(他者)の思いの宛先に〈わたし〉がいると信じられる。

そんなとき、〈わたし〉は嬉しくなる。

体の中に力のようなものが湧いてくる。

元気になる。

生きていると感じられる。

 ――わたしが密かに思いを寄せている人が、わたしのことを思ってくれている、と分かったときの胸のときめきのようなものか‥‥

 

逆に言うと、

〈わたし〉は誰からも相手にされない。

〈わたし〉を思ってくれる人はいない。

誰の心の中にも〈わたし〉がいない。

〈わたし〉を訊ねる人はいない。訪ねても来ない。

 ――人間、所詮、孤独なのよ。ひとりぼっちよ‥‥

〈わたし〉には思いの宛の〈他者〉がいない。〈わたし〉は〈他者〉の思いの宛先になっていない。そういう状態で、生きる元気が出るだろうか。生きていけるだろうか。

生きているようで生きていないと同じ。

〈わたし〉はいないもいっしょ。

――たとえ、少々嫌われても、誰かから思われていた方が、まだましか。いや、それも嫌な気もするが‥‥

 

〈わたし〉は、誰か〈他者〉の心の中に〈わたし〉がいることを知って、そのことを感じて、力や元気が出る。生きる張り合いが生まれる。

〈他者〉の中に〈わたし〉がいることで、〈わたし〉は生きていける。

〈わたし〉が〈他者〉の中にいるからこそ、〈わたし〉は生きる。

――〈わたし〉は〈他者〉の中‥‥うーん、わかったような、わからないような‥‥

 

ところで、〈ケア〉の場面で、例えば、高齢者ケアで、その高齢者の心の中に「わたしはこの職員さんにほんとうに大事にされている」などという気持ちが生まれているか。

あるいは、そのケア職員は「この方の笑顔からわたしは生きる力を貰っている」などという実感を持つことができているか。

その場の当事者、その高齢者とその職員、それぞれ〈わたし〉と〈他者〉という関係の中で〈ケア〉が成り立っている。

 

老い衰えた高齢者にとって、その職員の思いの宛先に自分がいる、職員の心の中に〈わたし〉がいると感じる、ということで元気が出たり笑顔になったりする。

接する職員も、その高齢者の笑顔や元気にふれて、力が湧いてくる。元気を貰う。

こういうところから〈ケア〉を考えていきたいと思うのです。

 ――うん、それは大切だと思う。 そういえば、「ケアは双方向」って聞くけど‥‥

 

障害、病気、老化などで「できない」人に、「できる」人が〈ケア〉する。する人とされる人の関係は、どう見ても一方通行のようです。でも、〈ケア〉現場では、〈ケア〉をする側の人が〈ケア〉を受ける側の方から逆に力や元気を貰うことが起こっている。〈ケア〉の中で〈わたし〉と〈他者〉がお互いに力や笑顔のやり取りをしているというのです。

哲学者の鷲田清一さんは次のように述べています。――「ケアがもっとも一方通行的にみえる「二十四時間要介護」の場面でさえ、ケアはほんとうは双方向的である。子供を育てるなかで赤ん坊の笑顔に救われないひとはいないだろう。」(『老いの空白』)。

 

そして、鷲田さんは次のような重い言葉を投げかけます。

「ケアの問題のいちばんの核心にあるのは、ひとにおいてはだれかの傍らにいるというただそれだけのことで、力を与え合うという関係が両者のあいだに発生することになるのはなぜか、という問いだ……」(『死なないでいる理由』)。

同じようなことを、広井良典さんはこう言います。――「ケア」とは、その人に「時間をあげる」こと‥‥あるいはその人と「ともに時間をすごすこと」(『ケア学』)。

そして、池上哲司さんは「側にいること、傍らにあることが重要である」と述べ、「ただ他者の傍らに在り続けつつ、老いていくことだけ」と言いきります(『傍らにあること』)。

 ――「だれかの傍らにいるというただそれだけのこと」‥‥深いね。

   それにしても難しい‥‥

 

さて、〈ケア〉現場で、

「迷惑をかけてばかりで心苦しい。早く死にたい。」

「このお年寄りは自分では何もできないのに文句ばかり言って困る。」

「あの職員さん、私の前ではニコニコ顔で親切に介護してくれていたけど、終わって部屋を出ていった後で、すごく苦々しい顔をしていたのが見えてしまった。悲しかった。」

「あのお年寄りにはこの手助けが絶対に必要なのに、嫌だ嫌だと拒否するの。このままではさらに体の状態が悪くなるのに、どうしよう。」

などといった声が聞かれます。

 ――残念だけど、これも現実かな。ケアは理屈だけではいかないもの‥‥

 

〈ケア〉現場は、どこも、いっぱい問題課題を抱えています。

〈ケア〉の今後を考えるとき、どうしたらいいのか。何から手をつけたらいいのか。

その「模範解答」などというものはないように思います。

これからも迷い続けていくしかないのでしょう。

その「迷い」について述べながら、もう少し〈ケア〉を考えてみます。

 ――〈ケア〉を考える会での、ある話が思い出されますね‥‥

 

「ケアで何でもできるとでも思ってるの?」。「ケアがなんぼのもんや」。「たかがケア、されどケアぐらいに考えた方がいいよ」。「ケアケア言うから、ケアが見えなくなる。ケアの相手も見えなくなる」。「ケアは何のため? あんたのためにあるんじゃないよ」。

ある人に、そういう意味のことを言われました(僕はそう受け取った)。

頭をガツンとやられたような気がしました。

 

〈ケア〉について学んで、経験を積んで、いい〈ケア〉をしようとする。その熱心さが裏目に出ることがあるようです。〈ケア〉の「落とし穴」とでもいえましょうか。〈ケア〉の与え手側が一所懸命になればなるほど、その〈ケア〉の受け手の姿が薄くなり霞んでしまうことがある。「利用者本位」とか、「高齢者のために」とか、「尊厳」とか、くどいほど叫ばれ説かれてきていて、それが重要だと思っていても陥るのです。

 ――どうしてですか‥‥

 

〈ケア〉が与える側から語られることが多く、受ける側から語られることが少なかったということがあります。さらに、そこでは「正しい」〈ケア〉があるように語られていたりします。正しい〈ケア〉を正しく実践することが大事、とでもいうように。

上野千鶴子さんは『ケアの社会学』で「自信過剰になり、迷いを失ったケアには落とし穴がある」、「迷いを失ったとき、プロのケアは堕落する」という言葉を紹介しています。

 

〈ケア〉はその〈ケア〉を受ける「当事者」から始まらなければなりません。そして、受け手と与え手は「対等」であるといわれながら、実際は与え手が強く優位に立ってしまうのを知るべきです。〈ケア〉は送り手のためのものでなく、何よりも受け手のためにあります。

そこで何が大切か。鷲田さんは「弱いものに従う」ことと言います。(「弱さ」は強さの欠如なのではない、という松岡正剛さんのことばも紹介しています⇒『フラジャイル』)。また、「他者のことを他者のほうから見るということ」、「そしてそのためには、専門家ですらじぶんの専門的知識や技能をもいったん棚上げにできるということ」とも述べています。さらに、最も大事なのは、どういうなかでも「その場を立ち去らない」ことだと言うのです(『〈弱さ〉のちから』)。

 

〈ケア〉当事者とそれを取り巻く環境は絶えず動いています。そこでの〈ケア〉は、その時その場の判断で行われるしかありません。理想の〈ケア〉が先ずあって、それを受け手に提供する、というものではない。マニュアル通りにはいかない。「迷い」、「ゆらぎ」ながら、ということになります。

尾崎新さんは、「社会福祉援助の本質」は「ゆらぎ」にあるとして次のように述べています。最後にこれを引用します。

 

援助者が「ゆらぎ」を経験する主な理由は、人の生活の仕方や生き方に「つねに正しい画一的な答え」が存在しないためである。……一人ひとりの生き方、生きる意味はみな同じではない。また、同じ一人の人でも、加齢にともなって人生の意味や課題は変化する。生き方ばかりではなく、死に方、死の意味もそれぞれに異なる。このように、生活、人生はつねに個別的であり、可変的である。

そのような生活にかかわる援助にも「常に変わらない正しい答え」は存在しない。(『「ゆらぐ」ことのできる力』)

 

 ――そろそろ、まとめてよ‥‥

 

迷って、ただオロオロ立往生しているだけでは〈ケア〉にならない。

どう「迷う」か、いかに「ゆらぐ」かが、重要です。

その、ゆらぎ方、迷い方を身につけるために、「〈ケア〉を考える会」はあるのかもしれません。

――そこまで言いきっていいのかどうかは分かりませんが、「〈ケア〉を考える会」を続けることが大事なのですね。

 

                 (社会福祉士、介護支援専門員)